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文化觀光 文化財

文化觀光

先史および古代の遺跡

  • 西辺洞集落遺跡
  • 燕岩山先史遺跡
  • 砧山先史遺跡
  • 東川洞集落遺跡
  • 八達洞遺跡
  • 鳩岩洞古墳群
  • 伏賢洞古墳群
  • 西辺洞古墳群
  • 琴湖洞古墳群
  • 検団土城
  • 伏賢洞牛角形把手散布地

基本情報

西辺洞集落遺跡
所在地 北区西辺洞670の一帯
時代 新石器時代

ご紹介

西辺洞集落遺跡は、大邱地域で初めて新石器時代の遺構と遺物が確認され、学会の注目を集めた遺跡であり、新石器時代の遺構と遺物以外にも、青銅器時代の住居地と溝状遺構、三国時代の水田などが調査された大規模な集落遺跡である。この遺跡は、大邱盆地を横切る琴湖江と、その支流である桐華川が合流する地点の西側に位置する。この遺跡の調査は、東西辺地区の宅地開発工事に端を発し、1998年10月から2000年2月まで発掘調査が行われた。この遺跡は、集落遺跡のうち、住居に関連する竪穴住居地49棟と高床建物地3棟に関する資料があり、耕作遺構や石棺墓、集石などが調査された。調査された新石器時代の遺構は、数は少ないものの、出土した遺物を通じて、当時の人々がここで一定期間居住していたということが分かる。何よりも、大邱地域において先史時代のうち空白期とされてきた新石器時代を立証する重要な役割を果たすこととなった。

基本情報

燕岩山先史遺跡
所在地 北区山格洞1180の一帯
時代 青銅器時代

ご紹介

遺跡は、琴湖江と新川が合流する東側の低い丘陵に位置している。この丘陵は三角状で、北側は断崖となって琴湖江に接し、西側は新川に接している。南と東は緩やかな傾斜面になっているが、この一帯に石器、無文土器などの遺物が散見される。これまで地表から住居地は発見されていないが、土器や石器片の散布状態から見て、近くに集落があり、ここが土器・石器を大量に製作していた作業場であったと推測される。そして、丘陵の南麓に三国時代の石棺墓群が分布していたことから、この一帯の住民はその後、三国時代の初期段階まで大きな集落を形成して生活を続けてきたことが伺える。現在、丘陵の南麓まで住宅地となり、石棺墓は痕跡さえ消えて、丘陵の上部のみ石器、土器片が採集されるが、最近はここにも建物が立ち並び、多くの遺跡が破壊された状態である。この遺跡の重要性は、無文土器文化末期段階の代表的な遺跡ということにある。散布された土器、石器から見て、この遺跡は、無文土器文化末期に新川流域はもちろん、琴湖江流域で最大の遺跡と判断されるが、大邱の発祥の地と言っても過言ではないほど、大量の遺物がある。採集された遺物を見ると、最も多いのが磨製・半磨製の有構石斧、次に大小形の石鑿、石斧、石鏃であり、土製品としては無文土器、研磨された甕棺、高台土器、そして多種な漁網錐がある。

基本情報

砧山先史遺跡
所在地 北区砧山洞山15-2の一帯
時代 青銅器時代

ご紹介

遺跡は、新川と琴湖江が合流する地点の西側にある低い丘陵に位置している。この丘陵は、東の燕岩山と新川を挟んで向かい合っている。この丘陵は海抜130mで、周囲は約2,000m程度である。南北に長く伸びた丘陵の北側の頂上部と西側の傾斜面に無文土器片と石器片が散在している。この遺跡は、大邱の発祥の地とも言える燕岩山丘陵とともに、先史土着民の生活の舞台であったと見られる。この遺跡の北側には琴湖江を挟んで八達洞遺跡が位置しており、琴湖江と新川が合流するこの一帯が、大邱盆地の中で初めて集落が形成された場所と推定される。採集遺物は新川の向かい側の燕岩山遺跡と有溝石斧、石刀、石斧、無文土器などである。遺物の時期も燕岩山遺跡と類似している。現在は、慶尚女子高校の校庭拡張や採石、住宅地によってほとんど破壊された状態である。

基本情報

東川洞集落遺跡
所在地 北区東川洞361-2の一帯
時代 青銅器時代

ご紹介

東川洞集落遺跡は漆谷3宅地開発地区の発掘調査地域の一部である。1990年代に入って急速に都市開発が進められた大邱漆谷地域は、琴湖江の支流である八筥川流域の沖積平野地であり、函芝山、道徳山、明峰山に囲まれた盆地である。東川洞集落遺跡の発掘調査は1997年7月から1999年2月まで実施され、住居地、竪穴遺構、柱穴などの集落遺跡の以外にも、大規模な溝状遺構や河道、水利施設、耕作地などが追加で確認された。調査された遺構は、青銅器時代の竪穴住居地、高床建物地、石棺墓、井戸、集水地、溝状遺構、耕作地、環濠、河道など、当時の集落の全貌を明らかにすることができる多くの資料が確認されており、竪穴や水利施設、耕作地などの三国時代の遺構も一部調査された。

基本情報

八達洞遺跡
所在地 北区八達洞山8、9-1、16-1、145、151-17番地の一帯
時代 原三国時代

ご紹介

遺跡が位置する場所は、大邱市街地の北に離れた琴湖江沿いの丘陵にあり、大邱から八達橋を渡り、ソウルに向かう高速道路の右側に位置している。この丘陵は、琴湖江岸から北に1㎞離れた函芝山から東西に延びた支脈の先端部である。遺跡には、生活住居遺跡と墳墓遺跡が混在しており、南東側の低い地帯に住宅が密集している場所からは、生活との関連が深い無文土器、半月形石刀、石斧が主に採集されており、北側と西側の稜線には、土壙木槨墓と甕棺墓、石槨墓が造成されている。この遺跡は、1980年に予備軍塹壕を掘ったときにその存在が確認された。このとき発見された遺構は土壙木槨墓であり、出土した遺物は無文土器の属性を有する赤色土器、黒色土器の長経壺、高杯、台付鉢、鉄剣であり、時期は紀元前後の初期鉄器時代である。これらの遺物は現在、国立大邱博物館に展示されている。その後の踏査で甕棺墓と土器が発見されている。この遺跡については、1992年に慶北大学博物館が原三国時代の土壙木槨墓17基を発掘調査して、瓦質、陶質土器、鉄矛、鉄鏃、鉄鎌、玉など約200点の遺物が出土している。また、最近では、嶺南埋蔵文化財研究院がアパート団地建設敷地で行った発掘で、青銅器時代の住居地約20軒、無文土器の甕棺墓や原三国時代の甕棺墓、木槨墓、石槨墓約300基が調査された。この調査では、青銅製遺物(細形銅剣、銅矛、銅戈)、各種土器類、石器類、鉄器類の遺物が数百点出土している。この遺跡は、これまで大邱地域の調査の大部分が青銅器時代と三国時代の遺跡に対して行われていたことから見て、大邱圏の歴史には登場しなかった時期をつなぐ大事な資料となっている。

基本情報

鳩岩洞古墳群
所在地 北区鳩岩洞山77の一帯
時代 三国時代

ご紹介

遺跡は、大邱の北側に位置する漆谷野東側の主峰でありながら、八筥山城がある函芝山の西南側の丘陵一帯に存在する。この山は南は琴湖江と接し、西北には山間平野である漆谷野につながっていたが、現在はこの一帯がアパートになっている。古墳群が分布する稜線は比較的険しく、起伏が激しい。この丘陵の稜線上には、比較的大型の古墳があり、傾斜面一帯には小形墳が数十基が散在している。古墳の構造は、石槨積石墳という特殊な形態である。石槨を塞いだ封憤はすべて積石墳で、大邱盆地一帯に分布する他の古墳とは異なる形態を見せている。これらの古墳のうち、56号墳については、1975年に嶺南大学が発掘調査を行われた。この古墳は、本墳と北墳に区分されており、本墳は東南から西北に緩やかな傾斜を成した地上に位置しており、封墳の大きさは直径18m、高さ4.5mである。北墳は、本墳の北側の端に接して構築され、本墳の直径約5m、高さ2.6mの規模で、積石木槨墳である。本墳と北墳との関係は、本墳が先に作られ、北墳は後から追加で作られた。各墳はすべて主副槨を備えた形で、長さに比べて幅が狭い形で築造されている。本墳の主槨の大きさは、長さ5.6m、幅9.3m、高さ1.45mであり、割石面の滑らかな部分を合わせて積み上げ、上部に行くほど内側に縮んでいる。天上は巨大な蓋石4枚で覆われている。副槨は、長さ6.4m、幅75cm、高さ1.15mで、上部に行くほど内側に縮み、天井は平らな蓋石で覆われている。遺物は、高杯や大小の壺など数百点が出土した。現在、この古墳群はほとんどが盜掘に遭い、激しく破壊された状態である。

基本情報

伏賢洞古墳群
所在地 北区伏賢洞214-1ほかの一帯
時代 三国時代

ご紹介

遺跡は、琴湖江の西側にある丘陵の一つに位置しており、西大邱盆地を貫流する新川と、琴湖江の間に形成された東部丘陵地帯である。この一帯の古墳群は1975年5月と9月の2度にわたって発掘調査が行われ、そのうちの2次調査については1989年に慶北大学博物館が報告書を刊行している。古墳群が造成された丘陵は海抜40m程度で、この丘陵の西北にはペジャ池があったが、現在は埋まっており、北側に1km以内の距離には検丹土城がある。この古墳群が位置していた場所には現在、大邱北中学校とアパート団地が造成されている。当時の調査記録を見ると、古墳のほとんどが竪穴式石槨墓で、南側の低い丘陵の傾斜面に東西方向に築造されていた。石槨の大きさは概ね長さ3∼4m、幅1m程度であり、板石を利用して作られた。遺物は、主に両端部から発見され、高杯、長頸壺、台付長頸壺、短頸壺、器台、蓋などの土器類と鉄鎌、鉄刀子と紡錘車など数百点に至る。

基本情報

西辺洞古墳群
所在地 北区西辺洞山38の一帯
時代 原三国時代

ご紹介

遺跡は、函芝山の南東側の稜線末端部に位置しており、琴湖江と桐華川が合流する北西側の丘陵である。周囲には桐華川を渡った鶴峰の東の麓に鳳舞土城があり、古墳がある丘陵の頂上には八筥山城が位置している。そして、桐華川に沿って約2km遡った谷で青銅斧が発見された例もある。古墳は、稜線の斜面に沿って分布しており、10基程度が確認される。封墳の大きさは直径5m前後であるが、大半が削平されており、盗掘の痕跡はほとんどなく、比較的良好な状態で残されている。この古墳群から北に200m離れた地点からも、畑の開墾途中に台付長頸壺や短頸壺などの土器が出土したこともある。

基本情報

琴湖洞古墳群
所在地 北区琴湖洞山99-1の一帯
時代 三国時代

ご紹介

遺跡は、琴湖江の北側の琴湖I.Cから、セトと文朱村に分かれる三叉路の東北側の稜線西斜面一帯にある。この稜線は、漆谷一帯の多くの丘陵のうち、西北川に位置するもので、伊彦川によって独立した丘陵である。この稜線は、南は琴湖江に接しており、東稜線の向こうは漆谷野につながる。近年、古墳群が分布する場所には果樹園として耕作しており、古墳は殆ど破壊された状態である。中央高速道路の建設区間内にあり、1990年に大邱教育大学博物館が発掘調査を行った。報告書によると、石槨は長さ2m、幅80cm、高さ60cm程度の小型で、蓋石を使用した竪穴式石槨墓である。壁面は川石と割石を使用して積み上げたものと、板石を立てたものがあり、土圧によって壁の大部分は内部に入り込んでいる。出土遺物には、高杯、壺、蓋などがある。

基本情報

検団土城
所在地 北区検丹洞山1-1の他一帯
時代 原三国時代

ご紹介

城は、大邱盆地の北を流れる琴湖江の河岸丘陵に位置しており、鳳舞土城とは琴湖江を挟んで対峙している。城の周りは1.3Kmで、東側は琴湖江に接して形成された自然断崖を利用し、北側と南側は丘陵の稜線に沿って城壁を積み上げ、西側は広い浸蝕谷を横切って積み上げた包谷式である。現在は、道路と工団により西側が破壊され、その痕跡を失っている。検丹土城の低い丘陵に沿って南に1Km以内の距離に伏賢洞古墳群があり、また近くの河岸の丘陵地に無文土器や石器が散在していることから、この一帯には先史時代から一つの集落集団が形成されており、その集団がこの土城を築造したものと考えられる。土城の内部には、集落が形成されて生活を営むことができる広い空地がある。実際に、城内の低い地域に無文土器、石器、そして陶質土器片が散在していることから、この土城は原三国時代に初めて築造され、その後は入保城として継続的に利用されたものと推測される。しかし、今日はもうその痕跡を見つけることはできない。

基本情報

伏賢洞牛角形把手散布地
所在地 北区伏賢洞
時代 三国時代